◎噛み砕いて教えられるのだから、血に肉にする頂き方。為に求道心がいる。
%1親先生めまいのおかげで分かられたこと。
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昭和四十三年二月十一日 朝の御理解
X御理解第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
此方は参ってたずねる所がなかった。例えば、食べ物でも味は大変美味しいけれども、全然栄養にならないという食べ物がありますね。美味しいけれど栄養にはならないという。〈そこだに〉美味しいという事はないけれども、非常に栄養が高いと言う食べ物があります。
教祖の神様のみ教えというものは、通り一遍に頂いたら、「美味しくない方じゃなかろうか」とこう思う。けれども、それを段々頂きつけるというか、それを噛み砕いて頂いておりますと。もう限りがない程に味がある物だけではない。もう絶対に、血になり肉になり、これにでておりますように、身凌ぎの出来る様なとこまで受けられる。
身凌ぎというのは、「神様に自分で、もう直接お伺いなども出来れるようになる。自分の事ぐらいは人に頼まんでもおかげ頂けれる」と言う様な訳なんです。此方は参って尋ねる所がなかったけれども、氏子は遠路の所を、こうして参って来るが、「しっかり信心をして、み教えを頂いて、身に徳を受けて身凌ぎの出来るような信心になれ」とこういう。
そこのところをひとつ、お互い目指さなければいけません。ですから通り一遍に頂きますと、教祖のみ教えはあんまり美味しい方じゃないと、こう。世の中で言う、「金言」、「たとえ」と言ったようなものと似たような感じがする。まあ、何々宗、何々派の教えと金光様の信心もやっぱり同じですたい。行く所は同じでしょうと言うような人が沢山ありますねえ。何様でん拝みおりゃ行き着く所は同じことじゃから。
絶対違うんです、金光様の御信心は。それがみ教えを頂いておると、いわゆる、お道の信心の絶対性と言ったようなものが身に付いてくる。お取次という事のどういう事か、「お取次を頂いてのその働きと言うものが、働きかけていく働き合い」と言うものが、どういう様なものか分かってくるんです。
ですから、何様でん同じこと、教えは同じ。行き着く所は。登り道は違うても、まあ、頂上に登ったら同じだという様な考え方では、金光様の御信心を深く味わう事は出来んのです。もうひとつ金光様の信心を本当に味わう。
そういう意味で私は、ここに参って来る人は教祖がおっしゃっておられますように、「此方は参ってたずねる所がなかった」と、こうおっしゃる。ところが、ここではですね。それが教祖のみ教えを、例えば、読むだけといった様なものではなくて、例えば、私が、今読ませて頂きましたが、その真意、その本当の訳合いというものをいろんな角度から教えて頂く。
それを、お互い頂いて帰って、家業の上に生活の上に、それを現わしていこうと精進して行くところに、本当に心が、生き生きとして来る。心が、いわゆる救われてくるのである。もう寒いも暑いも感じないくらいに、心が生き生きして来る。そこにおかげが受けられる。
先日、北野の堤清さんがお知らせを頂かれた。Z『桂という字、柱という字、木ヘンに土が二つ、その字を頂いて、ところが、その木ヘンに土が二つ書いてあるのだけれども、土が一つしか書いていない』。まあ、そういう字はありませんね。ない事はないね。あれは杜とか、なんとか読みますね。杜子春の杜と、杜子春の杜が、「木ヘンに土だった」と思います。
それにもう一つ、土が足りない。もう一つの土の信心を目指さしてもろうたら、お広前の中心、お広前の柱にもなろう。社会の家庭の本当に大黒柱として、皆なから、尊敬されたりするおかげになる。私は、それを頂いてから、なる程、あの人はなかなか良い信心を致しますけれども。
確かに、土という字がひとつ欠けておる感じがします。ね。そこで、その、そんならば、堤さんはもうひとつ欠けておる土の信心とは、どういう信心であろうかと、やはりそこんところを求めてこなければいけない。
先日、二、三日前、守部の高山さんの息子さんが、英樹さんが参ってきた。右の方の御結界でお取次。弘子先生がお取次さしてもろうた。ところが、その弘子先生がお取次さして頂くことに。只今、あなたの事をお願いさしてもらいよりましたら、Z『大という字、大という字だけれども、大という字の片一方の踏ん張りのないところ』を頂いたんですよ。「まあ、よう、ひとつ分からにゃいけませんよ」と言うて、お取次さしてもらった。
あくる日、参って来た時には、「ここで、お取次」願った。それと同じような、「御理解」を頂いた。ですからですね、例えば、弘子先生がお取次をした時に。もうひとつのふんばりというのは、「どういうもんであろうか、どういうもんであろうか」と願い続け、求めつづけておると。
あくる日、ここで頂く御理解が、「ピシャーツ」と自分のものになる。血に肉になる。ところがホケンごとしとると、あくる日、その事に対して、噛み砕いて下さってあるのだけれども。それを、せっかく神様のお知らせをおかげに、いわゆる、血に肉にする事も出来ない。あまりにも簡単ですから、味わわなければ、噛み砕かなければ美味しさはでてこないのが、教祖の神様のみ教えなんです。
頂いただけではいけん。話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出せとおっしゃるように。もうひとつの土という字は、どういうような事であろうか。もうひとつのこの踏ん張りというのは、なにがが欠けておるのであろうか。もうひとつおかげ頂ければ、もうひとつこれがおかげ頂ければ、大のおかげが受けられるが。
もうひとつ、この土(どろ)の信心が出来れば、本当に柱になれるようなおかげが受けられるがと、私は願い続け求め続けねばいけんと。それを求めようとしない。わが心から練り出そうとしない。それでは身に徳を受けて、身凌ぎの出来るような信心はおぼつかない。また、信心の味わいもそれまでのもの。
この方は参って尋ねる所がなかった。私は、ここでは、たとえて言うならば、教祖のみ教えを一遍通り読んだだけでは、これは何々様とはあんまり変わらんたい。これは普通で言う、金言のようなもんたい。まあ、ちょっとした、たとえ話たい。まあ、言うなら、イソップ物語のような感じのところもある。
ところがです。それを本当に噛み砕かしてもらうと、それこそ、「大天地の心」と言うか、難しくいうと、いわば「大真理」、それを言葉見易うに説いておられる。それを合楽では、それこそ、私自身も説きながら思うのです。「なんと、なんとすばらしいみ教えであろうか」。なる程こう頂くと、このみ教えがはっきり分かってくる。
先日から、真の信心と言う事について頂きましたねえ。「信心する人の真の信心なきこと」と言うみ教え。もう本当に、通り一遍に聞いたら、味もそっけもない感じです。そうどころじゃなか。真の信心さえすりゃ。そんなら真の信心とは、どういう様なことか。その「真の信心」という、真の信心には絶対おかげが伴う。ところが伴わない。
その徳もおかげも頂ける。そうどころじゃなか。真の信心しなならん。天地の親神様が、これだけ沢山参って来るけれども、「真の信心をする者がいない」と言うて、いうなら、あれは悲しいお言葉である。
それを、あの時の御理解を頂きますと、もう本当、はあ、「真の信心をする者がない」とおっしゃる。その真の信心というのは、この様にも見易いもので、この様にも有難いものであるという事を、もう実に、具体的に説いてあったですね。私共でも、あのみ教えを頂いてから、丁度桜井先生が参っちゃったが、はあ、長年お道の教師でも志すぐらいですから、誰でも真の信心に真の信心を受けたい。人にも取次さしてもらいたい。
ところが、自分自身がわからん。それを、「真の信心とは、真の信心とは」と、日頃求め続けておる者だったら。もうとにかく、あの朝の御理解なんかは、もうそれこそ、大変な御理理解なんです。とうとう、その日昼頃まで残ってから、あの御理解を全部書き写して帰られました。
ようにですね。求めておらなければ、只、どんなに神様が端的に、大という字の一本が足らん。あんたこればいっちょおかげ頂きゃ、大のおかげが受けられると言われても、いつ迄経っても、ちんばふんだごたるおかげしか受けらん事が分かる。あの人は良い人じゃ、立派な人じゃ信心修行もできる。
例えば、清さんの事、熱烈な信心修行も持っちゃるけれども。あんたの信心になにか、いっちょんもの足りないものがある。どろの信心がもうひとつ足らん。ここんところのおかげさえ頂きゃあ、あなたは柱になれるようなおかげが受けられるよと、頂いても、それを求めてこなかったらいつ迄も柱にはなれません。大のおかげも受けられませんと言う事になる。
皆さん、どうでもひとつね。み教えのその味の出るところ迄。いわば、ここはどっちかと言うと、あまり噛み砕きすぎてか。にゃんにゃんして食わせるような感じだもんね。かえって味がないのかもしれません。かというて、教祖のみ教えを「ポン」と言うただけじゃあ、あらがみしてから、只、覚えただけでなあにも分からん。
ここでは少し噛み砕き過ぎる感じがしますね。ですから、よそから来た人達なんかはもうびっくりするです。このみ教えを頂きますと。ここの方達は当たり前のごと思うとるですもんねえ。毎日頂いとりますから。「はぁ、このみ教えには、こういう素晴らしい神様の御神意というのがあったのか」という事が、そこんところを噛み砕いて下さる。
そこんところを自分達のものにして行く。分からんところは、いよいよ話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せ。そこの信心をさしてもらう。もう本当にですね、練らにゃいけません。
%1私、昨日から、月次祭にも、お話も簡単にして休ませて頂いたように。身体が、もう寒気がしてたまらんのですよね。昨夜は、ここの説教台から下がる、御神前に行くまでによろよろとして倒れようとしました。目まいなんです。それから、もうじっーと、それこそ頭を抱えるようにしてから寝間にまいりました。寝たところが、又、目が回る。そういう中にですね、いろいろと分からして頂く事がある。
%1昨夜、お話致しましたのも、私が寒気がする。はあ、これはこの暖まると言う事は、布団やらカイロやらスト-ブやらで暖まるもんじゃないんだと言った事が、私の心に分かってきた。暖まるというのは、やはり身体が健全でなからなければならない。それでいて布団だスト-ブだ、いわば、暖房だという事になるのである。どんなにお布団を着てもどんなに部屋を暖めて頂いても、とにかく、背中が痛いように寒気を感じるんですからね。
%1いかに自分の力で暖まるという事が出来ないかという事が、私、分かったんです。ですから、昨夜も、目まいでこれはいろんな事が分からしてもらった。丁度、一時頃迄、目まいが致しました。お腹が空いているんですけどこう頭が上げられんのですよね、枕から。おかげで、一時過ぎからそれが納まって、今日は、また、こうして御用がでけております。
%1その間に分からせられる事は、もう本当に素晴らしい事なんです。これはもう、とにかくいっ時、に時で、お話出来るこつじゃないけれど。その目まいがするという事なんです。そうすっと、その目まいが、又、有難い事になるでしょうが。寒気がする事によってです。どうしても布団だけでは、カイロだけでは暖まる事が出来ない事が分からして頂いてです。
昨日、お話したような事を分からしてもらうんですから。その事も有難くなってくる訳。その事を通して練らにゃいかん。あゝ苦しか、苦しかだけじゃあいかん。そこの中から分からして頂くこと。それが、日頃、み教えを頂いとかんとなかなか出て来ない。
此方は参ってたずねる所がなかった。そして神様から頂かれて、あの教典が出来た。ところが、その教典は実に味もそっけもないといや、味もそっけもないようにある。食べ物でいうなら美味しくない感じ、栄養には成るけれども。それをいよいよ頂けば、素通りするような感じ。それを噛み砕いて頂かしてもらうと、一か条、一か条、その教祖の神様の教えておられる事の素晴らしさに、唯々、驚いてしまう。
参って尋ねる所がなかった。それを教祖の神様は、私共がお参りすると、教祖の神様がそれをお取次して下さる、教えて下さる。それをここでは、又、その、「ここのところの意味がわかりません」と言うて、神様におすがりさせて頂いて信心修行させて頂いて、おかげを頂いておりますと。その意味の深さを噛み砕く様にして、教えて下さる。ですから、いよいよ、いわゆる美味しいものに成ってくる。
ところが、美味しいものになってきたら、それが、ただ美味しいなあ。御理解を頂きよる時には確かにですね。合楽の皆さんは、もう皆んな、私はもう感心します。昨夜、ここ一杯のお広前にね。あのお月次祭を、拝しまして頂いておるけれども。それこそ、人がおるのかおらんのか分からないくらい。もう咳払いの声、ひとつ聞こえないんだものね。
じーっと、その神様の例えば、み教えならみ教えを、今か、今かと、待ち構えているような雰囲気があるんですよ。皆さん、今日もそうでしょうが。お広前一杯、こうして集まっておられるけれども。その頂くという事は頂きながら、皆さんが、「はあ、そうどころじゃない、そうどころじゃない」というような顔をして。「もう、美味しかしてたまらん」という顔をしとんなさいますよ。ここから見ると。
ところが、あんまり美味しかもんじゃけん。ずーっと美味しかばっかりで、いっちょん血に肉になりよらん。ここのところのですね。私の責任も感じるですけれども。そこんところを、もう一遍、それこそあの噛み砕かれたあの教えをですね。もう一遍、噛んでみて、味わってみて。
そして、欠けておるといわれたがどこが欠けておったのか。どう信心すりゃ、この大のおかげが受けられるか。どうすりゃ、この柱のおかげになられるようなおかげを受けられるであろうかというような、私は追求する心。いわゆる求道心である。
そこに私は、柱になるようなおかげも大のおかげも受けられる。おかげが約束されるのでありますからここんところを皆さん頂いて。此方は参って尋ねる所がなかったけれども。ここでは、皆さんが、参って尋ねるどころか、もうそれも噛み砕いて教えて下さるのですから。それを、ただ素通り的なもの、ただ美味しいだけで頂かずに。血に肉になるような頂き方をこそ、本気で分からしてもらわなければならんと思うですね。どうぞ。